厚岸の歴史

西暦 こ   と   が   ら
厚岸町にある竪穴・貝塚とそれらの出土品からみて、すでに数千年前から人が生活していたとみられ、縄文・続縄文・擦文時代の遺跡が町内各所にある
松前藩が厚岸場所を開設し運上屋を設ける(1624年~1644年の寛永年間といわれる)
1643 寛永
20年
M.G.ド・フリース率いるオランダ東インド会社の金銀島探検船カストリクム号が厚岸湾に入り松前藩士の臨検を受ける。薪水を補給し、湾内等の測量をし去る
1702 元禄
15年
飛騨屋久兵衛、厚岸などで蝦夷檜(エゾマツ)山を開発
1779 安永
8年
前年に交易を求め来航したイルクーツクの商人シェバーリン一行に対し、松前藩は厚岸場所ツクシコイに藩士を派遣し国法により通商できない旨を通告する
1789 寛政
元年
クナシリ・メナシのアイヌの戦いが起こり厚岸アイヌのイコトイら近隣のアイヌを説得し、松前藩と共に事態の沈静化にあたる
この戦いで厚岸の請負人飛騨屋久兵衛は免ぜられ、阿部屋(あぶや)村山伝兵衛に代わる
1791 寛政
3年
松前藩が勤番所を設置
最上徳内、神明宮を創建(厚岸神社の前身)
1792 寛政
4年
ロシア遣日使節アダム・ラックスマン一行、漂流民大黒屋光太夫らを伴い町内バラサン沖に到着
1799 寛政
11年
東蝦夷地は幕府の直轄とし官船政徳丸が厚岸に入港
1800 寛政
12年
伊能忠敬、東蝦夷地測量で厚岸に滞在する
1804 文化
元年
幕府、蝦夷三官寺設置を決定(有珠・善光寺、様似・等?院、厚岸・国泰寺)
1821 文政
4年
東蝦夷地は再び松前藩の支配に復する
1831 天保
2年
厚岸場所ウライネコタンでイギリス領オーストラリアの捕鯨船レディ・ロウエナ号乗組員と詰合・足軽らが戦闘を交える
1843 天保
14年
前代未聞の大地震と津波あり(国泰寺日鑑記に記載)
1844 天保
15年
北辺の防備のため台場が設置される
1850 嘉永
3年
イギリス領オーストラリアの捕鯨船イーモント号が町内末広沖で難破する。乗組員は、長崎から出国する
1855 安政
2年
東蝦夷地は再び幕府の直轄となり箱館奉行の管轄となる
1859 安政
6年
厚岸は仙台藩領となる

※年表事項の作成にあたっては『厚岸町史』を主な典拠とし、そのほかの文献・資料によって補いました。

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