教育長からのあいさつ

%e9%85%92%e4%ba%95%e6%95%99%e8%82%b2%e9%95%b71386   ~宮城県南三陸町「語り部バス」体験~

 

南三陸町で、震災を語り継ぐ「語り部バス」に乗りました。7年間一日も休まず、のべ30 万人が利用したそうです。2011年3月11日、女性職員が無線で避難を呼びかけ続けた防 災庁舎。その庁舎は鉄骨だけの痛々しい姿になっていました。

戸倉小学校では、避難場所を400m離れた高台から校舎屋上に変更する案を検討していました。宮城県沖地震の場合、津波到達まで3分と発表されたからです。地元出身の教師は、「昔から言い伝えられている『地震が来たら、津波。津波のときは高台へ』の鉄則を変えるべきではない」と主張し、結局、専門家から助言を得て決めるまでの間は校長が状況に応じて判断することになりました。そしてあの日、校長は学校にいた児童91人全員を高台へ無事避難させます。もし、屋上避難が決定されていたら・・・(校舎は水没しました)。ちなみに、高台避難を主張した教師は1960年のチリ地震津波の体験者でした。おそらく、子どもの頃から津波の恐ろしさと避難の大切さを繰り返し教えられてきたのでしょう。    

高台には、保育所児童を含め約150人ほどが避難していました。雪が舞い、厳しい寒さと夜の闇が迫る中、区長や年長者を中心に、薪拾い、たき火、海の見張り、けが人の手当、子どもや病人の対応など、全員が自分にできることを探して協力したそうです。後に校長は、「日常の地域力が非常時に大きな力を発揮するのだとつくづく感じる」と記録しています。

4階建ての会館では老人会の行事が開催されていました。この会館の避難場所は少し離れた所にある高台でしたが、地震による引き潮で志津川湾の海底が丸見えになったのを見た職員は、高齢者全員を高台に避難させる時間がないと判断し、会館の屋上に避難して難を逃れます。度重なる経験と、語り継がれた知識と知恵が、マニュアルにない勇気ある決断につながったと推察します。

本町においても、やがて来る「その日」に備えて過去の経験を語り継いでいく必要があると思います。そしてなんと言っても、「逃げる文化」と「助け合う文化」を育んでいくことが大切なのではないでしょうか。

 

     教育長 酒井 裕之